戦い 姉川 の

このとき、浅井長政軍5000人に朝倉景健軍8000人が加わり計1万3000人の陣営となった浅井・朝倉連合軍は、織田・徳川軍に対峙する兵力が整ったと判断し、同年6月27日、横山城への後詰めに向かうため、小谷城から南下を始めます。 アーカイブ• 当然、大事な場面で自分を裏切った浅井長政を許せるわけもなく、浅井を攻める好機をうかがっていたのです。

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遠藤直経が斬首された地には長らく遠藤塚がありました。

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長政の裏切りにより、信長は撤退するしかなくなり、攻略した朝倉氏の金ヶ崎城で、京都への撤退を決めました。 実は、 浅井と朝倉が同盟を結んだ後から、同盟関係を結んだ信長と長政ですが、同盟の際には 「朝倉と戦をしない」という約束が交わされていました。 義景はこれを拒否し続け、それを口実とし、信長は越前へと兵を進めることになる。

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同年6月21日、織田信長は、浅井長政を釣り出すために一旦は横山城を包囲してこれを攻め立てますが浅井長政がこれに乗ってこないことを確認すると、包囲の兵を残して横山城を無視して小谷城に向かって進軍します。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 1570年(元亀1)6月28日、近江 おうみ (滋賀県)の姉川畔で繰り広げられた浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍の戦い。 無視された織田信長は激怒し、元亀元年(1570年)4月、朝倉討伐のため、越前国一乗谷へ侵攻します。

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新しい将軍が決まったとなれば、各大名は挨拶に向かわなければいけません。

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また、朝倉勢でも豪傑で知られた真柄直隆、真柄直澄、真柄隆基らが討死し、午後2時頃に戦闘が終わった時、姉川は血で赤く染まっていたと言います。

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6月22日、すると織田信長は殿軍に ・ ・ らを据えて鉄砲500、弓兵30を授け後退し、横山城へと向かいました。

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朝倉義景を討つために越前を出兵した織田信長は、突如背後にいた朝倉長政に裏切られて命からがら京都から岐阜へ帰還。 その遠藤直経の首塚から姉川側にある 県道37号線沿いには、織田信長が戦闘の際に本陣を置いたとされる「陣杭の柳」があります。 193 いつもご高覧賜りまして、深く御礼申し上げます。

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そこで信長は作戦を変更し、小谷城から南方に9kmにある横山城(現長浜市)を落とすことにしました。

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